今回は大相撲の街、両国駅周辺。

現在の両国駅・駅舎は関東大震災発生後の1929年に再建された駅舎。
ホーム横にはターミナル駅の面影を残す駅舎とホームが残されていて、旧駅舎コンコースを利用し「大江戸八百八町・花の舞」が営業。店内にある土俵が名物。

両国といえば、何といっても大相撲の興業施設「両国国技館」。
1985年1月場所より使用されている現在の建物は二代目。

よく見りゃ案内地図も力士型になっていて微笑ましい。
相撲部屋や力士サイズの服を取り扱う洋品店、そしてちゃんこ鍋の店など、街の大相撲関連の物を挙げるとキリが無いので今回は割愛。

とはいえ相撲とは直接関係無い店名や建物名等にまで、どうしても相撲が入ってしまうのは場所柄か。
元力士が始めた店だとか相撲好きの集まる店だとか、細かいことは知らんけどね。

街には下町特有のオンボロ食堂なども点在している。

大型の新しい建物が増えつつある場所ながら、こういった古い店が残っているのにはホッとする。

さてこちらは一見何の変哲も無いビル。

このビルにある、「もんじゃ」と読んでしまいそうになる店、こちらは「もゝんじや」。
1718年(享保3年)創業の猪料理店。ももんじとは百獣(ももんじゅう)の意で、かつては動物の肉を扱う店を「ももんじや」と総称した。この店も当初は「ももんじや・豊田屋」という屋号だった。

看板に“猪初入荷致しました”とある。
はて?隣にある黒い影は...

よく見るとギョッ!猪の骸がぶら下がっているではないか。
この店では、猪の肉は味噌仕立てのすき焼き。その他にも鹿刺しや狸汁など珍しい肉料理を味わえるらしい。
江戸時代、両国橋を挟んで西詰(西側・浅草橋など)と東詰(東側・両国)では雰囲気が変わった。
西詰は将軍のお膝元で規制が厳しかったのに比べ、東詰は自由で様々な文化が花開いた。「もゝんじや」のような店で肉を食べることも出来た。もっとも江戸時代は肉を食することは禁止されていたので、猪肉は「山くじら」と称していたそうだが。

現在の両国駅・駅舎は関東大震災発生後の1929年に再建された駅舎。
ホーム横にはターミナル駅の面影を残す駅舎とホームが残されていて、旧駅舎コンコースを利用し「大江戸八百八町・花の舞」が営業。店内にある土俵が名物。

両国といえば、何といっても大相撲の興業施設「両国国技館」。
1985年1月場所より使用されている現在の建物は二代目。

よく見りゃ案内地図も力士型になっていて微笑ましい。
相撲部屋や力士サイズの服を取り扱う洋品店、そしてちゃんこ鍋の店など、街の大相撲関連の物を挙げるとキリが無いので今回は割愛。

とはいえ相撲とは直接関係無い店名や建物名等にまで、どうしても相撲が入ってしまうのは場所柄か。
元力士が始めた店だとか相撲好きの集まる店だとか、細かいことは知らんけどね。

街には下町特有のオンボロ食堂なども点在している。

大型の新しい建物が増えつつある場所ながら、こういった古い店が残っているのにはホッとする。

さてこちらは一見何の変哲も無いビル。

このビルにある、「もんじゃ」と読んでしまいそうになる店、こちらは「もゝんじや」。
1718年(享保3年)創業の猪料理店。ももんじとは百獣(ももんじゅう)の意で、かつては動物の肉を扱う店を「ももんじや」と総称した。この店も当初は「ももんじや・豊田屋」という屋号だった。

看板に“猪初入荷致しました”とある。
はて?隣にある黒い影は...

よく見るとギョッ!猪の骸がぶら下がっているではないか。
この店では、猪の肉は味噌仕立てのすき焼き。その他にも鹿刺しや狸汁など珍しい肉料理を味わえるらしい。
江戸時代、両国橋を挟んで西詰(西側・浅草橋など)と東詰(東側・両国)では雰囲気が変わった。
西詰は将軍のお膝元で規制が厳しかったのに比べ、東詰は自由で様々な文化が花開いた。「もゝんじや」のような店で肉を食べることも出来た。もっとも江戸時代は肉を食することは禁止されていたので、猪肉は「山くじら」と称していたそうだが。
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